The Saxophone Summit Story
by David Liebman

マイケル・ブレッカー、ジョー・ロヴァーノ、デイブ・リーブマンと現代を代表する3人のサックス奏者をフロントに擁したスーパー・グループ、サクスフォン・サミットが待望のアルバム「Gathering of Spirits」をリリースした。
このグループの実質的リーダーのデイブ・リーブマンが、サクスフォン・サミットについて昨年自身のウェブサイトに執筆したストーリーの完訳版をお届けします。



Saxophone Summit
Gathering of Spirits
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サクスフォン・サミットは過去に類を見ないようなものだ。過去数十年間で最も影響力のあるうちの3人と並外れた経験と技術を持ったリズムセクションが一緒になっている。こんな音楽的状況はそうあるものではない。私自身のことを言うと、こんなグループの一員となることは大変特別なことで、その体験を読者やリスナーと分かち合いたいと思う。

過去数十年はそれまでと比べ物にならないくらい多くの若いプレイヤーたちが現われてきた。これは世界的に増えてきた大学や音楽学校レベルでのジャズの様式化の当然の帰結だった。形成期が1950年代、60年代までさかのぼるサクスフォン・サミットのメンバーにとって、教育は現場でのトレーニングによって得られるものだった。このグループのメンバーがツアーやレコーディングしたことのあるアーティストのリストは20世紀後半の現代音楽の歴史とも言えるものだ。個人的なレベルではこのグループの中の音楽的つながりは30年以上もさかのぼるものもある。 個々の明らかな音楽的な技量は別にしても、表現方法や経験の共通性がグループのサウンドに大きな影響を及ぼす要素になっている。我々は文化的にも音楽的にも革新的で変化の激しい時代、時期に成長してきた。 分かち合える思い出は強い力となる。特に年月を経た後では。このグループはその原理を劇的な形で現している。

Tribute To John Coltrane
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サミットは日本で1997年に行われた「Live by the Sea」というコンサートから発展した。 これは10年前に東京で行われた「Live Under The Sky」というコンサートの10周年記念だった。その10年前のコンサートはジョン・コルトレーン死後20周年を記念して行われたもので私はウェイン・ショーター、エディ・ゴメス、ジャック・ディジョネット、リッチー・バイラークと一緒にコルトレーンの曲をフィーチャーしたセットに参加した。その後リリースされたこのコンサートのビデオ(今はDVDになっているが)とレコードは世界中のジャズ界で評判になった。

97年のコンサートにはとりわけ選ばれたアーティスト、パット・メセニー、クリスチャン・マクブライド、デイブ・ホランド、ジャック・ディジョネットが参加していた。コルトレーンに捧げられたセットはジョシュア・レッドマン、マイケル・ブレッカー、私とジョー・ロバーノが入っていた。(ジョーは直前になって来られなくなったので、ジョージ・ガルゾーンが替りに演奏した。)コンサートは大成功を収め、イスラエルのレッド・シー・ジャズ・フェスティバルの主催者は翌年の彼らのプログラムに似たような企画をやって欲しいとリクエストしてきた。このコンサートは1998年8月にジョー、マイケル、私とで行い、2-3ヶ月後にニューヨークのバードランドで数回ライブをし(それ以来毎年やっている。)、ニューヨークのシンフォニー・スペースでのコルトレーン音楽のコンサート、モントリオール・ジャズ・フェスティバルのジョーをフィーチャーした4日間のプログラムの中でも演奏した。

ジャズでは伝統的にオールスターグループで一つの楽器にスポットを当てることがよくある。これは同じ管楽器や他の楽器を違ったミュージシャンが演奏するのを聞くことができ、いつも観客を喜ばせてきた。このようなイベントは時に「バトル」という形で呼ばれ、アーティストはその中で対決しあうことが期待された。「サクスフォン・サミット」は、このような昔ながらのフォーマットの現代版である。スタンダード、ブルース、そのルーツを反映するようなリズムチェンジを演奏する昔のミュージシャン達と同じように、我々も以下に書くような共通のレパートリーを持っている。サクスフォン・サミットは伝統とその延長線上のものを兼ね備えている。

The Rhythm Section

素晴らしいリズムセクションを紹介するのにまずは年長のベーシスト、セシル・マクビーから始めよう。彼は1960年代半ば、若い頃にオクラホマ州タルサからニューヨークにでてきた。彼はすぐに、ジミー・コブとハンク・モブリーとのウィントン・ケリー・トリオでポール・チェンバースの後釜に座ることによってしっかりとした地位を確立した。そしてウィイン・ショーターらとレコーディングをするとともに、若き日のキース・ジャレットを擁するチャールス・ロイド・カルテットのメンバーにも加わった。 現代よりもスタイルが均一的だった時代にあって、彼の異なった音楽状況に適応できる能力は際立っていた。セシルの特別な才能に貢献している重要な要素は、ジャズのリズムセクションの中でベーシストに必須の技術に加えて、高いレベルでの自発性と意外性のセンスだ。彼は真の意味でのインプロバイザーで、一瞬、一瞬の変化に柔軟で、使い古されたフレーズやドラマチックなソロイストが使うような音は綿密に避けていく。個人的にはセシルは紳士的な雰囲気を滲ませている。彼は柔らかいトーン、すばらしい言葉遣いで温和な物腰で話をする。一旦音楽のことになると、セシルは非常に厳しくなり、必要であれば、特定の音楽の場面において最高の演奏をするために、より多くの情報を要求する。マクビーは真のベテランであることは間違いない。

ピアンニストのフィル・マルコヴィッツは91年から私と一緒に演奏してきた。90年代のほとんどは私のバンドのレギュラー・メンバーとして数枚のCDをレコーディングし、クインテットでもデュオでも演奏した。現在はマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックの修士課程で私の半音階理論を中心としたコースを一緒に教えている。ストレートに言えば、フィルは私が出会ったミュージシャンの中でもベストのうちの一人だ。彼の知識は幅広く、技術と完璧なスイングの感覚を兼ね備えている。また彼は有能な作曲家でもある。これ以上のピアノを求めることはできないだろう。フィルはスペースを残すということの重要さを理解している。これは3人のソロ奏者の伴奏をするには不可欠な側面だ。アンサンプルでの演奏も多くあるが、もちろん我々全員のソロがたっぷりある。完璧な音程感とチェット・ベイカーなどの巨匠との共演を通じてえた経験を持つフィルはこのプロジェクトにぴったりの男なのだ。彼は人間としても完璧な紳士でユーモアのセンスがあって気楽に旅をすることができるし、音楽の仕事に関してはすばらしく熱心だ。

このグループをドライブするエンジンは偉大なドラマー、ビリー・ハートだ。私が思うには、サクスフォン・サミットのサウンドの多くの部分をビリーの素晴らしい劇的な感性や色彩と無限のエネルギーの適用に頼っている。彼はどうやってテンションを作ると同時に各々のソロ奏者のための枠組みを形作るかをわかっている。グループが単に技術的なレベルで素晴らしい音楽を創造するだけでなく、力強いストーリー性を創造するとき、リスナーはより深いレベルで引きこまれることになる。ドラムスはジャズ・グループのサウンドの中心に位置しているので、バンドがドラマや興奮を造り出す能力は大部分がドラマーの能力と指示によっている。卓越した色彩感覚で選び抜かれたシンバルと各種の織りなすような楽器を使用し、尽きることのないリズムの創造性を発揮するビリーは究極のドラム奏者だ。これが私が他の同様に優秀なドラマーと彼を区別する点だ。私が彼に青信号、つまり何をやってもいいという合図を出すと、彼の能力とバンドのサウンドにもたらすマジックは無限に拡がっていく。ジャズでは時にはドラマーは、音楽がどのように聞こえるべきかといったような計画や先入観を持ったリーダーの希望に従わなくてはならないことがある。またある者は即興演奏するときには、まずはしっかりと安定したバックの演奏を望むこともある。これはドラマーならサイドマンの役割をするときには誰でも理解していることである。しかしながらサクスフォン・サミットでは、このようなリズムセクションへの制約は一切ない。ビリーの演奏はグループの成功とサウンドに必要不可欠なものなのだ。

偉大な音楽は単なる技巧以上のものである。卓越したミュージシャンシップを芸術の域まで推し進める言葉を越えた何かのための場所と必要性が存在する。このような側面を表わすのに、「スピリチュアル」という言葉もしくはそのような効果を表わす表現が決り文句のように使われてきた。それを達成するために時として一人のミュージシャンから発する何か特別な力(フォース)が必要とされ、それはグループの残りのメンバーに広がっていって願わくば増幅されるのだ。私が思うにビリーは「サクスフォン・サミット」でそのような役割を果たしている。彼が1980年代に10年近くに渡って私のグループ、「クェスト」のメンバーだった頃から私はずっとそのことに気が付いていた。ビリーが70年代の初期にハービー・ハンコックと演奏していたときに、リーダーがメンバー全員にスワヒリ名を付けた。その時のビリーのスワヒリ名は「Jabali」でモラルの権威という意味だった。(これは世界中でいかに多くのミュージシャンがプロとしても個人としても彼のことをそのように思っているかということだ。) 私はこの称号はとても当てはまっていると思う。ビリーは私が人生の中で出会ったことのある中でも最も成熟した知恵と深い普遍的な精神を内に秘めている。私の父の平穏な精神性は別にすると、このような形で私が感じたことがある最も強いフォースは私が70年代に数年間演奏をともにしたドラマー、エルヴィン・ジョーンズの存在だった。私にとってJobaliは複雑ではないが、深遠な信仰の核心と言葉を超越した精神的な領域との関係を所有している存在だ。この深遠さは彼が演奏しているときに私が感じるもの、彼の存在が皆に影響するようなものだ。このようなものがJobaliビリー・ハートのパワーなのだ。私はそんな彼と同じステージに立てて光栄だ。彼が全ての違いを造り出すのだ。

The Summiteers

フロントラインでは私のサックス仲間の一人目、ジョー・ロヴァーノについて少し言おう。ジャズ界では知られているように、オハイオ州クリーブランドでサックスを演奏し、音楽に没頭していた父親の代からジョーはピュアなジャズの血筋だ。ジョーは真のジャズマンでジャズのサクスフォンの全ての歴史を包含しながら、ジャズ文化の状況、倫理、雰囲気を喚起させる。彼のリズムと旋律のコンセプト、技術、そして音色はまったくもってゆったりしている。ジョーのいくつかの演奏スタイルでの経験は非常に豊かで、偉大な情熱と高揚するスウィング感を持ってそれを結実させる。個人的にはジョーは暖かい人間で、すばらしい人間性に、茶目っ気のあるユーモアと鋭い洞察力があるので、一緒に仕事をしたりツアーをしたりするのも非常に気楽な人物だ。

私が音楽的にも個人的にも最も付き合いが長い一人がマイケル・ブレッカーで、1960年代終わりごろまでさかのぼる。最初はマンハッタンの西19丁目にあった私のロフトにたむろしていて、数年間は終わることのないフリージャズのジャムセッションを繰り返していた。実際、マイケルは私がニューヨークの他の場所に引っ越した後、そのロフトを引き継いだんだ。研究熱心であり、多くの練習を真剣にこなし、もちろんマイケルの演奏はこの数十年間、数多くのジャズリスナーに親しまれてきた。彼は現代のサックスの技術の限界に挑んできたし、また同時に近年、最もよく知られた少なくとも数個のテナーサックスのアプローチに貢献してきた。マイケルはステージを盛り上げるし、いつも間違いなくやり遂げる。彼のトーンとタイム感は全く妥協がないし、一旦ソロをとるとリズムセクションをぐいぐいと引っ張っていく。人間としては暖かみがあり、優しくて探究心が旺盛な気質で、まじめそうな見かけから想像できないような、浮かれているんじゃないかと思うような微妙なユーモアのセンスもあったりする。

私はいつものように事実上のリーダー役、仕切り役を務めている。私はこんなことを各種の音楽や教育の場で30年以上もやっている。私の仕事は演奏するミュージシャンの強みを理解して用い、音楽をそのままの形でステージの上に載せて準備することだ。このドリームバンドの場合は豊かな才能と創造性と情熱は始めからあったものだ。

The Rhythm Section

リズムセクションのミュージシャンは始めに私が選んで、マイケルとジョーが承認するのだが、その結果は興味深いものだ。ホーンプレイヤーは皆、結局のところ我々の演奏に大きな影響を与えるリズムセクションの意のままになってしまうことをわかっている。 リズムセクションはフロントに大きく絡んでくることもできるし、ただ従っていることもできる。結局のところそれはテイストと重点とバランスの問題ということで、もちろんその時に演奏されているスタイルにとって何が適切なのかということを調節されたものだ。プレイヤーによってはインターラクティブに反応するよりもサポート的なりズムセクションの流れの中でのほうがより自分の音楽がよく表現できると正直に感じる者もいる。 私はコルトレーンとマイルス・デイビスの1960年代のグループに見られたソロイストと対等か、時にはそれより前に出てくるかもしれないくらいに相互作用する激しいリズムセクションに美学を感じる。

前にも書いたように、私のビリーとの音学歴は「The Quest」で数十年前まで遡るし、フィルとは10年以上のつきあいで、セシルとはもっと最近だ。80年代のセシルとビリーが一緒に組んで、それに私が加わったレコーディングセッションから数回にわたって彼らを自分のレコーディングに使ったことがある。こういった経験があったから彼らのコンビネーションがどんなサウンドになるかは大体想像することができたんだ。

リズム・セクションを組み立てる最初の要素はベースとドラムスの組合せだ。彼らはお互いにコンファタブルじゃないといけないし、起こるかもしれないどんな音楽的な事柄に対してはできれば同じような反応を示して欲しい。「Jabali」とセシルを組ませることで興味深いのは彼らの意外性と予測性の間のバランスだ。リズムセクションはもちろんそのスタイルやレパートリーによって一定の責任を果たすことになっている。一般的にその最も重要な仕事は演奏されている特定の形式を維持しながら、適切かつ一定のパルスを保つことだ。またサクスフォン・サミットのように数人の主要なソロイストを擁するグループが必要な刺激とエネルギーを得るためには、高いレベルでの柔軟性と自発性も要求される。これらのバラバラの要素のバランスをとるということがキーとなる。これらの要素をひっつけるのがピアニストだ。フィル・マルコヴィッツはその知性と経験によってリズム・セクションとソロイストの間の接着剤の役割を果たすことができる。サクスフォン・サミットでもリズム・セクションは彼らが得意とする強いパワーと強烈さを持続しなくてはならない。

The Repertoire

Norman Granz' JATP
Carnegie Hall 1949
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ノーマン・グランツの「Jazz at the Philharmonic (JATP) 」はミュージシャンが何世紀もの間世界中でやってきたジャム・セッションというものを不滅のものにした。このフォーマットはリスナーをインプロヴィゼーションでお腹一杯にするだけでなく、伝承を組織的かつ首尾一貫したやり方で具現化することによって音楽コミュニティーは明確に影響を受けた。古い世代の教義は若い世代に競争と仲間意識という2つの人間の最も基本的な本能の組合せを通して伝えられる。サクスフォン・サミットのようにミュージシャンが皆同格であるならば、自分が関わっているのと同じ曲を自分と同世代のものたちがどのように演奏するのかを知る機会がある。ジャム・セッションのくつろいだ雰囲気の中で、(もしくはもっとミュージシャンが互いに活発に競い合うような「カッティング・セッション」のような強烈な性質のものでも)ミュージシャンは最大限の能力を発揮して皆を楽しませ、身近な、そして遠く離れたコミュニティーの中での自分の地位を刺激し、向上させる。その過程の中で音楽的な関係は確立され、強められる。ミュージシャンは創造的なエネルギーに刺激された気持ちでジャム・セッションから立ち去るかもしれないし、時には他のミュージシャンの演奏や発明を聞きながら覚めた気持ちでいることもある。

それゆえに「サクスフォン・バトル」とか「ドラム・バトル」などは使い古された伝統なのだ。(ところでこれはロジャーアルトマンの映画「カンサス・シティー」の中で見事に描かれている。)サクスフォン・サミットのバトルを聞きに来た聴衆は失望することはないだろう。しかし、マイクとジョーと私はバトル以上のことをしようとしている。もちろん我々の誰かひとりだけがソロをしているときにはグループはそれぞれのカルテットということになるのだが、またグループとして演奏する部分もかなりある。そこではジャズのリスナーが聞きなれた伝統的なホーンの和声やバッキングのオーソドックスなサウンドとは違うやり方をしている。

我々の主要なモデルのひとつは後期のコルトレーンで、ジョン(コルトレーン)が数本のホーンを使って自由にインプロビゼーションをやらせて信じられないような強烈さで火花散らしていたことだ。だから我々3人のそれぞれのソロとは別に、ホーンが同時に即興するという側面が同じくらいかもっと強いくらいあるんだ。だからこそサクスフォン・サミットでは、しばしばかなりの長い時間にわたって非常に激しくダイナミクスが高い演奏が頂点の状態で続く。1回のステージで少なくとも数回のすばらしいリズムセクションのソロも演奏される。

グループのレパートリーは数年の間にかなり変ってきた。最初のステージではスタンダードを演奏していたが、2003年までに我々はコルトレーンの「Meditations Suite」と3人及びマコーヴィッツのオリジナル曲で1ステージを構成するようになっていた。テナー・バトル風のストレート・アヘッドなジャズ、後期コルトレーン系のフリージャズ、テンポが変化するメロディー、拍子が一定のフォーマット、モード系の即興、「Dear Lord」、「Expressions」、「Peace on Earth」などのあまり演奏されないコルトレーンのバラードなどバランスよく演奏しようとしている。

我々は、色々なホルンや世界の楽器を使用することで、ステージを様々な色で飾った。2003年のヨーロッパツアーでは、マイクはバルカン半島に伝わる、口の横から気息音を発する笛を持ち出してきた。ジョーはずっと、日本の横に吹いて使う竹笛やアルトクラリネットを吹いていて、私は、ソプラノフルートやテナーフルートと一緒にインドの竹笛を吹いていた。こうした特別な楽器は、毎晩ステージによって変化する。広範囲に及ぶレパートリーと楽器の多様性により、サクスフォン・サミットはどんな客層にも満足してもらえる演奏を提供できるのだ。

The European Tour - October, 2003

2003年10月、9カ国で2週間に渡って、13ステージ演奏した。会場は全て大規模なコンサートホールで、1000人から3000人を収容できるものばかりだった。有名なホールでは、アムステルダムのコンセルトヘボウやウィーンのコンサートハウスでも演奏した。我々に同行してくれたのが、現地のマネージャー、サウンドマン、ロブ・グリフィン(通常はハービー・ハンコックやウェイン・ショーターと働いている)、そして私の友人である、フランスボルドー出身の、ジャン・ジャック・ケサダ(彼は旅行に関して、また他の色々なことも手伝ってくれた)。

このツアーは、普段はジョーやマイクと共に働いている、名の通ったエージェントによって手配されたファーストクラスのツアーであった。サウンドマンが同行し、一流ホテルに滞在できて、ヨーロッパで最高のコンサート会場に常に客席満員の状態で演奏できるなんて、考えられない程特別なことだった。ミュージシャンは皆、毎晩演奏できること程嬉しいことはないと思っている。しかし同様に自分に刺激になるのが、コンスタントに他の優れたミュージシャンが発明し、創造するのを聴く機会を持つことだ。特に自分が扱う楽器と同じものをやってる人のを聴くのは良い。前にも述べたようなレパートリーを持つことが、一つ一つの演奏に、柔軟性や多様性を加えることを非常に容易にしてくれる。

毎晩、リズムセクションが起ち上がっていくのにつれてマイクとジョーが音を重ねていく瞬間を聴くのは本当に興奮する。私は、いわゆる「プロ」を位置づけするのに一つの考えを今だ変えないでいる。プロというのは、常に一定の芸術性を持ち合わせており、一定の高い水準を下回ることがない者のことだ。でもこのバンドではそんなことをいうのは難しくて、あまりに演奏のレベルが高すぎるので、ある晩に目立ってよりよい演奏をするというのは難しい。もちろん時間と共に音楽は素晴らしいものになっていく。3回も公演すると、レパートリーは安定して、コンサート会場のホール音響に慣れてきて音楽も、だんだんと明確なものに成長しはじめる。

コンサートホールのステージでは、午後に音響のチェックをする時点と、実際に夜に演奏をする時点では、驚くほどに音質が違う。会場に人がいない時、リズムパートから明確な音を拾うことは、ほぼ不可能に等しい。サウンド・エンジニアができる最善のことは、会場が人で埋め尽くされた場合を想定し、それに基づいた可能なアドバイスを私たちに与えることだ。経験豊富なロブ・グリフィンのおかげで、我々は何も心配せずにすんだ。また、私たち3人は、AMTと呼ばれるワイヤレスマイクシステムを利用したおかげで、ステージ上では活動範囲を制約されることなく自由に演奏することができた。従って、もし一人がドラム、またはピアノに近づきたいと思ったら、そうできたのだ。このマイクのおかげで、一人がステージでソロ演奏をする間、2人はステージから退き、バックグラウンドで演奏することができた。我々は、しばしばツアー中この方法を利用したものだ。

ステージでの雰囲気はかつて無いほどにリラックスしたものだった。このような大規模のコンサートステージとしては特に。演奏中に動き回ることができたおかげで、邪魔されることなしに、互いにステージ上で言葉を交わすことができたのだ。私が常に、友情や言葉のやりとりの雰囲気がグループ全体の会話のレベルを高めてくれると確信している。ツアー中は、ステージの外でも私たちの間には同じような感覚が広がっていた。ツアー中、演奏以外で我々が非常に楽しんだものが、経験・歴史のあるミュージシャン集団だからこそできる、今までに会ったミュージシャンに関する会話であった。話題にのぼった人々の層は幅広く、オノ・ヨーコ、マイルズ・デービス、ウェイン・ショーター、ポール・サイモン、他、数々の有名人の名が上がった。将来は、我々が、音楽、人生、ばかげたことなどを話している場面をテープに録音してもらえたらと思う。きっと凄いドキュメンタリー作品に仕上がるのではないだろうか。

当然、2週間という短期間であれだけ移動するのは疲れる。幾度か、早朝5時の出発というのがあったし、ほとんどが2度か、そうでないときは、だいたい日に3度も飛行機に乗らなくてはならなかった。信じられないことに、イタリア航空がストに入りそうなだったのに、我々は一度も遅れたことがなかったのだ。幸運にも、彼らがストを決行した日は、私たちはバスでの移動だっただ。飛行場での警備は厳しく、我々は乗り換えのために長い距離をすばやく歩き、入国管理を抜け、重いセシル・マクビーのベーストランクはどこまでも我々のお供をした。疲れは、しばしば音楽にも影響し、まれに仕事を休まざる終えないこともある。必然的に睡眠を取ることが最優先となってくる。大概、私はツアー中は、時間があると、読書をしたり音楽を聴いたり、運動したり、何か書いたりするのだが、このツアーでは、時間があれば寝るか休憩するかのどちらかであった。一つ言えることは、私はツアー中、ニュースを隈なく知り尽くした。なぜかというと、どのホテルでも唯一見ることのできた英語の番組がCNNしかなかったからだ。

四つ星ホテルは本当にいいものだ。でも飛行機の中でサンドウィッチ(ばかりを)を食べた後にちゃんとした食事を摂れるか、どうかは本当に重要なことだ。もしサンドウィッチよりも悪いものを食べさせられたら本当に最悪だ。イタリアやポルトガルのような国では口に出して言う必要はないのだが、これらの国の人々は、アーティストに本当に良い食事をだしてくれる。演奏の1時間前で、実に時間が迫っているときでも、良い食事とワインがあると、演奏にやる気を起こさせてくれる。これがその時のツアーの旅程だ;

SAX SUMMIT TOUR OCTOBER-2003

13-Central Station, Darmstadt, Germany
14-De Single, Antwerp, Belgium
15-Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands 16-Jazz Festival, Padua, Italy
17-travel
18-Jazz Festival, Istanbul, Turkey
19-Jazz Jamboree, Warsaw, Poland
20-Congress Hall, Budapest, Hungary
21-Konserthaus, Vienna, Austria
22-Travel
23-Metropolitan Theater, Catania, Sicily
24-Metropolitan Theatre, Palermo, Sicily
25-Auditorium, Lyon, France
26-Coleseo, Lisbon, Portugal
27-Auditorium, Rome, Italy

このツアーが、私の人生の中で、最も素晴らしいツアーの一つであったことは間違いない。最高のコンディションで一流の演奏ができ、演奏したものはどれも興奮するものばかりだった。イスタンブールとブダペストでは、我々3人は、現地独特の管楽器を探しに行き、結果3人とも新しい楽器を購入した。一番印象的だったのは、ジョーが見つけた「タラガト」と言う楽器だ。ハンガリーのクラリネットのようなもので、もちろんジョーはその夜、さっそくステージでそれをお披露目した。残り2人が買ったものは、ダブル・リードのアルマニアの楽器であるドゥドゥークや、色々な笛などだ。

観客の反応は、興味深いものだった。マイクやジョーの長年の仕事ぶりから、ある程度の期待があったのは一目瞭然であったし、同様に3人のホーンの「バトル」を期待する雰囲気も感じられた。演奏の始めのほうでは、観客に特別な変化は感じなかった。しかしパフォーマンス、音の激しさや正直さがあからさまになるにつれて、彼らが私たちを畏敬し、敬意をはらっているのがわかった。観客は、現代では稀にしか経験できない期待以上の音楽体験をしたと思う。

現在、検討している次の活動は、2004年始めにテラーク・レーベルでのレコーディング(Gathering of Spirits)。あと、次回のツアーはアメリカでやろうと考えている。サクソフォン・サミットの演奏にみんなが来てくれるのを楽しみにしているよ。(デイブ・リーブマン)

デイブ・リーブマン公式サイト(この記事の原文が掲載されています)

マイケル・ブレッカー公式サイト

ジョー・ロヴァーノ公式サイト




The Saxophone Summit
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Written by Dave Liebman
Translated by Motomi Haruyama & Masato Hashi
Photos courtesy from Dave Liebman

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